わるい子になりたいよ いい子にしてるから

薬を飲んで、効いてきた瞬間、

どこまでもイケそうな気がするし、

どこにも行けない自分に安心しているベッドの上。

死ぬまでに痛み止めをあといくつ

飲むんだろうか。

痛みを麻痺させて鎮められる生きやすい世の中で

二粒で簡単に抑制される身体を使って

眠って起きて食べている。

「死にたい」と言うと本気で心配されるし、

ほんとうに死に向かう行動をしてしまいそうな

危うさがあるとも言われる。(ごめんね)

薬を飲むと眠たくなるし、

なんだかすべてどうでもよくなるし、

いやなことぜんぶ

内臓色の、でもラメ入りのピンクに

塗りつぶしてばらばらにして

スノードームみたいにふわぁってさせて

一頻り鑑賞したあと、

捨てたい。

生生生生生。

初めて人骨を見たのは6歳の3月だった。

まだ春には程遠い北の3月。

時折思い出したように暖かくなり

路肩の雪融け水が側溝を汚し始める季節。

初めての春休み。

外はよく晴れていたというのに

あの日は一日中家にいたのだったか、

おやつに出された蜜柑に歓声をあげた昼下がりのこと。

ざっくりと9つほどに切られた蜜柑の香りは甘酸っぱく、

汁が顎に滴り落ちるのも厭わずに頬張っていた。

間の抜けた固定電話の着信音が悲しい報せを持ってきたのは、そんな平穏な午後だった。

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「人の死」、を怖れ続けてきた。

焼かれたばかりの人の骨は

哀しいくらいにあたたかくて、

悲しむ周りの空気とは似つかわしくないくらい、

優しいあたたかさを持っているのだということを知った

6歳のあの日からずっと。

とりわけ

生まれて初めて愛してくれた人であり、愛した人(両親)を

いつかは失うことの怖れは20を越えてからというもの、

より現実味を帯び、ずんずんと迫ってくるようになった。

皮肉なもので、自分の死は怖くない。

交通事故で意識を失い、「死」に直面したこともあるというのに、「遺す者」と「遺される者」という位置の逆転が起こると、妙に腹が据わった。

画して、人間とは傲慢な生き物だ。

「遺す者」よりも「遺される者」の痛みが大きいことを

本能的にわかっている。

けれど、自分が「遺す者」となる一度の死に比べて

「遺される者」となる経験は歳を重ねるほど増える。

恋愛、そして一般的にその先にあるものとされる結婚を、

"血縁者以外の特定の人から愛され、家族になり、子を産む"

ことと定義するならば、

「遺される者」としての死を怖れる対象は

必然的に増えていく。

まるで「遺される者」として生きる試練を、

生まれながらにして与えられているようだ。

神様は人間に酸いも甘いもお与えになる。

人はいつか死ぬ。

知人の知人が亡くなったかもしれない今日、

私がつゆ知らず良いことがあったと喜ぶ世界は、

明日も自分にとっての都合の良いように、

自分が愛する対象が中心に廻っていく。

それはもう仕方のないこと。

誰しもが東京は疎か、

同じ地区に生きている人すら愛すことはできない。

人生の中で愛すことのできる対象は限られている。

それならば、

それならば、

せめて、

自分が愛する人と

「死」までの毎日を

少しでも同じ時間を感じながら

生きていきたい。

いつ何時、「遺される者」となり、また「遺す者」になるか

わからない毎日を、そんな風に生きていきたい。

「死」は日常に融け込んでいくもので、

「遺される者」は「遺す者」のすべてを

永遠に留めておけない。

だからこそ、

だからこそ、

少しでも多くの時間を過ごしたい。

それが人にできる

「死」を迎え入れる唯一の術なのだという

希望的観測の下に。

痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い でも

好きな人が

私の知らない日に

世界からいなくなってしまった。

それでもわたしはいまとうきょうにいる。

そしてこれからもしばらくはとうきょうにいる。

それは辛くて、

とても辛くて、

好きな人の日常に交わらないところで生きている事実を

ぶつけられては消えない痣に泣いている。

大好きな人の喜びにも苦しみにも気づけない自分を呪う。

こころは、Wi-FiでもLTEでも救われなくて、

だからもうすべての遠距離を終わりにしたい。

とんことり。

最近よく、いい子だね、と言われる。

いい子。

近所の人は大抵言う。

「犯罪に手を染めるような子じゃなかったのに、

挨拶するいい子だったのに」

挨拶を交わすくらいの近所付き合いで

相手の何がわかるんだろう。

私は友人だって、恋人だって、そして両親のことだって、

本当はきっと何にも知らない。

誰かに対してはaという存在で 誰かに対してはbという存在で、 そんな風にiくらいまである存在。

誰かにとってのいい子なんて 誰かにとってはほんとは全然いい子じゃない。

私がいい子なんじゃなくて あなたの前ではdという存在なだけ。

本当に好きな人の前では わたし、 ちっともいい子なんかじゃない。

ふりっくりっく。

好きな人以外嫌いで、ううん、興味すらなくて、

興味がないということは、嫌い、の斜め上、

たぶん角度は 嫌い の底面から80度くらい遠い。

少し前まであんなに近かったのに、

もうずっと遠い誰かの

タイムライン。

とりあえず、で繋がって、繋がった途端に

もっと遠くなった。

距離を埋めようとして必死なテクノロジーが生んだ距離。

ほんとの友人は友だちとは呼ばない。

友だちだった人をアンフォローして、ブロックする。

ほんとに会いたい人との距離は少しも埋まらない。

埋まったような気になって、気休めも無いよりましで、

無料アプリに頼って、繋がった、ことにする。

好きか嫌いかじゃない、

好きか興味がないか。

残酷な取捨選択制度の下に液晶画面をスワイプする侘しさを、

噛み締めて噛み締めて、

甘える。

ぐぼぐぼ。

好きなバンドは解散するし、

好きな作家の続編は出ないし、

好きな人は遠くに行くし、

私の好きなものは大抵散り散りになる。

やりきれなくて爆音で聴く背中のジッパーが沁みる。

中村文則を開いて主人公の名前を見て閉じた。

桜の花の狂気が都市の嬌声を造り上げている。

すがる未来に生かされてる。

すぷんく!

「あー、中学のとき仲良かった子に似てるー!」

貴方と共有していない14歳に、どうして私が巻き込まれなくてはならないのか、

と思ってしまう程度には、人間である。

駅の階段で、パンプスのヒールだけを落として上に行く女のような器用さは、私にはない。

5cmの日はいつでも5cm、

7cmの日はいつでも7cmの視界。

とっても昔に好きだった小説、

すぷんく!を探しに行く小説。

本棚の隅で丸まって大人しくしてる背表紙に

久しぶりに触れたいと思った、

好きなものは何でも遠くに行ってしまうから、

また好きなものを新たに探し続けるけれど、

遠くに行ってしまうものたちを

ずっと好きでいたい。

そんな感じのきょう。