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人一倍写真を撮られて育ってきたのに、

歯を見せた自然な笑顔はできない子どもだった。

ひとりっ子として物凄く物凄く物凄く

愛されて育てられた。

生まれたときからずっと撮られ続けて

わたしのアルバムはもう70冊を越えてる。多分。

真正面からのアングルは口を結んで、

両の口角をあげたものばかり。

その頃はそれが一番いい顔だと信じていたし、

何よりも崩れた顔で写真に写ることが怖くて、

変なプライドがあった。

通ってきたぜんぶの卒アルは

教師とカメラマンに笑え笑えと言われ続け、

馬鹿みたいに無理やり歯を見せてぎこちない笑顔が

はりついてるだけ。

でもあるときからそれが変わった。

歯を見せて笑えるようになった。

というより、誰よりもわたしを笑わせてくれて、

笑ってるときのわたしをいつの間にか撮っている、

そんな人に会った。

それは人生の中の大事件で、

今までとは全然違う写真の中の自分の顔に戸惑って、

こんなに笑っていたことに驚いた。

思いきり笑えて思いきり泣いて思いきり怒れる、

その人の隣はとても居心地が良い。

気遣いばかり先行しがちなわたしが、

本音でぶつかれる、そんな人。

わたしは弱い人間だから、

その人が近くにいない今は

あんまり上手に笑うこともできない。

満員電車の中、必死で鰓呼吸を繰り返している。

わたしすぎるわたしに変態できるようになるまで、

あと何年かわからないけれど、

乱れもがき揺らぐ自分をURLに落とし込んで、

何処ぞの人とも知れぬ他人に嘲笑われる、

いまはまだ、それくらいの存在です。

轟々。

「ものをごうごうと音が聞こえるようなスピードで食べるような男の人が苦手だ」

吉本ばななさんの小説に出てくる女の子は、

男の人の 食べ方 が苦手だった。

男の人特有の筋肉のつき方とか、

ごつごつと骨ばった手、低い声、それらとのギャップになるスイーツ好きや料理好きには好感を抱く女の子が多いというのに、「男性的」な男性はあまり好かれない時代だと思う。

派手にめかしこんでみたり、ハイヒールに花柄スカートで中身のない会話ばかりしたがる「女性的」な女性があまり好まれないことも然り。

黒か白かはっきりさせる時代ではなく、

グレーの濃度を調整するような生き方や考え方が

浸透しているような、そんな感じがする。

「君は男の人が苦手なんだ?そっか、でもね、大丈夫だよ。

男とか女とかちゃんと飛び越えてきてくれる人がきっといるよ。」

恋をしてみたいものの、男の人が苦手故に

恋人ができないという女の子に対して、

大森靖子さんが言った言葉。

すとんと落ちた。

恋愛恋愛というけれど、

男性女性というけれど、

それらすべてを飛び越えてくる人はいる。

黒でも白でもグレーでもない、ピンクの世界。

相変わらず体調は悪いけれど、

雨の日は誰もが平等に機嫌が悪くてなんだか

妙に落ち着く。

無題。

そんなヤツ、死ねばいいのに。

この一言に救われてしまった日のことを

敢えて記録として残しておきたい。

人には絶対に触れられたくない部分がある。

私の場合は顔。

人はあまり目立たないと言うけれど、

自分にははっきりと浮き立って見える、

一生消えない古傷がある。

大量出血で意識が朦朧とする中救急車で運ばれ、

失明していたかもしれなかった、

そんな事故でできた傷。

未だに

後ろから話しかけられることに異常な恐怖を感じたり、

救急車のサイレンを聞くと胃が縮まる思いをする。

似たような経験や感性の持ち主ならば、

もう年月が経ったから、では解消されないものがあることを知っている筈だ。

つい最近、社内にて初対面の人に

「え、顔に傷あるんだね?その傷どうしたの?ねえどうしたの?」と何度も何度も繰り返ししつこく聞かれた。

嫌いだと感じた人に対してこそ、

曖昧な態度でしか応じられない私は

「小さい頃に色々と…」と

引きつった表情と掠れた声で濁すのが精一杯だった。

そうやって、出会って30分足らずの人に、

顔と心の傷跡を同時に抉られた。

その日は帰宅するのがやっとの思いで、

夜も寝つけなかった。

ドラマのワンシーンのように昼間の光景が蘇り、

気持ちが沈んだ。

翌日からも無理矢理に出勤し、やっとの休日、

信頼のおける人に電話をかけた。

頻繁に近況報告をし合う仲、

出来る限り平静を装って、普段通りのトーンで報告した。

暫く間をおいて

今までに聞いたことのない冷たい声で

電話口から冒頭の一言が聞こえた。

私の中で、じんわりと、

でも確かに何かが崩れていく音がした。

相手に気づかれないように目頭をおさえながら、

救われている自分に気づいていた。

かわいそうだね、辛かったね、というような

共感ではなかったから、

100%の当事者意識の元に放たれた一言だったから、

救われてしまったのだろう。

人には絶対に触れられたくない部分がある。

ずかずかと侵入されるくらいならば、

悪意を持って、笑われたり、蔑まれるほうがましだ。

一番恐ろしいのは、無邪気とも言うべき悪気の無さだ。

本来、救われてはならない一言に救われてしまった日を

忘れられない「思い出」として敢えてここに記す。

わたしいがいわたしじゃないの。

小説、ドラマ、演劇。
フィクションが死ぬほど好きです。

それらを作る才のある人も好きです。
というよりなりたかったんです、本当は。

けれどここ最近、見えてきました。

「本当に好きだから、好きだからこそ、仕事にしたくない」の意味が。

時として、
掴んでしまうと壊れてしまうかもしれない夢を叶えるよりも、手を伸ばせば届く美味しいカレーが存在していてくれるほうが、しあわせに生きられるのかもしれない。

そんな風に思うこの頃です。

決して悲観的なわけではありません。
何かを諦めたわけでもありません。

むしろ、美味しいカレーの有り難みというか、
そういうものが作り出してくれていたしあわせに
気づくことができるようになりました。

いろいろが現実味を帯びると
風景も少しずつ変わるものですね。

最近、じぶんにとってのしあわせを
よく考えるようになりました。

2016年、24になります年女。

コロコロ変わるこのブログの文体のように
気紛れに、可愛く、我儘に生きます。

わたし!わたしだよ!

第一声がなんとか詐欺みたいなその電話がきたのは12月のはじめだった。

無論誰かは分からなくて、怖くて、何故見知らぬ番号に出てしまったのかと自分を呪った1分間。

「どちらさまでしょうか」
「わたし!」の応酬。

一本調子なわたし(筆者)に折れたとみえて、
彼女が名乗った。
小学生の頃のクラスメイトだった。

相手が分かった途端、
受話器からの声はとても愛おしくて、
泣きそうになった。

小学生の時分から
発達障害を抱えていた彼女の会話は
昔からあちこちに飛んでいくのだけれど
彼女の個性である
そのすべてを愛おしいと思った。

地元で生まれ、生き、産む、
そんな地方特有の習慣が根強い地域から、
同級生が多くいる土地から、
地元を離れたわたしに、
彼女が連絡をくれた。
なによりもそのことが嬉しかった。

身の回りの物を整頓することが苦手だった彼女が、
はるか遠い日に手渡した携帯の電話番号を探し、見つけ、
連絡するまで、どれだけの時間がかかったんだろうか。

遠く離れた場所でも自分を想ってくれる人がいる。
心から愛おしくて、
優しい気持ちにさせてくれる相手がいる。

笑っちゃうくらいにクサイけど、
わたしは自分のことを考えるのが得意じゃないから
そのことだけが、
生きる原動力。

ほんとは生きるのとてもつらい。

いつもネガティブで、自分が大嫌い。
自己批判は生きる原動力として作用してきたけれど作用した分だけ押し潰されて死にたくなる。
ちょうどブランコが前後に揺れ動くみたいに。

めためたに潰してやりたいサディズムと
ぐちゃぐちゃに壊されたいマゾヒズムの間で
揺れて揺れて溶けて墜ちそう。

人より出来ないことが多いわたしは
馬鹿みたいなプライドで
出来ない自分を許せない。
そんなもの捨てられればいいのに捨てられない。
捨てようとしては拾い上げて
3歳児のお遊びを繰り返している。

結局は棄てられたくないのだ。

エゴやルサンチマンに塗れた醜い感情を
可視化することは何の得にもならない。
そんなことは自明。

ただ、これを読む貴方が筆者に対して優越感を抱いたのならば、あるいは少しでも共感したならば、人間合格。不快感を覚えたのならば、まだまだ人間失格




貴方は全うな感性をお持ちですか。


ずっと早く卒業したくて、生きてきたの

大好きな金曜の夜から遠い一日が
始まろうとしてる。

永遠に満たされない変身願望を引きずって、
精神なんていつだって不安定。

「卒業」を待てなくなったいまは
「いつか」を待ってる。

ずっとなにかを待ち続けてしまうのは、
結局自分からどこかへ向かう勇気のない臆病さと、
待っている、という事実をも飲み込んでくれる日常のせいなんだろうか。 

そんなことを考えて、
なにかを考えたような気になって、待っている。

ひとり。