ぽきゅ。

春っぽい音感を考えたら、ぽきゅ。という音が湧き上がってきた。一度舌で転がして、可視化する。洋服の試着で言うところの、サイズぴったり。そっとたたみ直して、タイトルに飾る。

季節の変わり目だからか、春は頭が痛い。

毎日痛く、薬を飲み続けて4日程。

飲めば良くなるから有り難し。

朝。早く起きて、卵液にたっぷり浸した食パンをこんがり焦げ目がつく頃までじうじうと焼いた。シナモンの香りと林檎の果肉がゴロゴロしたジャムをのせていただく。

昼。バターをたっぷりいれた、たらこのスパゲティを少しだけ口にする。薬を飲んでとろとろ眠って、ぼんやりと過ごす。

夕方。夕飯の買い物のためスーパーに。アスパラの緑に魅入られたと思ったらカゴに入っていた。ベーコンがあるのでくるりと巻いて、ぱちぱち焼くことにする。トマトやチーズなんかもくるりとしてしまえばよさそうだ。

今。ベッド脇のローテーブルには大抵本が3,4冊積んであるのだけど、エッセイを一つ読み終えて山が小さくなった。

恐ろしく平穏な日曜日は怠くて、寂しい。

月曜が始まることへの倦怠感だけじゃない。

20XX年の日曜日には、何処で誰と何をしているんだろうか、なんて、5年後だって、全く見えないのに意味もなくぐるぐると考えてみたりしてるからなんである。

ただ、きっと20XX年後の春の日曜日だって、やっぱり頭が痛くて、薬を飲んでとろとろ眠って、良くなったら一向に減らないベッド脇の山を崩す作業に勤しんでいるんだろうな。

と、思うとそれはそれで何だか物足りないような、

や、それが一番の幸せなのかもね。

未経験のことをしたくて、でもまだ勿体ない。

そのくせ待ちわびているのも確か。

クリームソーダのサクランボを最後に食べるか最初に食べるか、迷ってるうちに過ぎていくような、そんな春。きっと一瞬。

持て囃された桜の花は雨風なんかで、あっという間にアスファルトに散って、茶色に変色し、箒で掃かれ、消えていく。

新調したばかりの無数の靴が、桜を踏み躙り、殺していく。

ぽきゅ。ぽきゅ。ぽきゅ。

中央線沿いのマンションのヨガ教室の窓から

ぬるくなった缶ビール。道端で燻ってるタバコの吸いさし。

すれ違う人の体臭。スマホで乾ききった眼球。

毎日の中に落ちている虚しさは言葉にすると

5度くらい体温が下がる。

でも紛れもなくそういう日常に生きていて、

だからキラキラした1日を手に入れたくて、みんな必死。

あまくてやさしくてだれもきずつかない、

みんながもとめてるキラキラ、

そんな非日常的なドラマはみたくない。

電車の網棚に忘れられた新聞の持ち主のドラマは

つまらないかもしれないけれど、

それは誰かが評価することじゃない。

ぜんぶぜんぶぜんぶ、そうだよ。

誰よりも生きてる、はげかかった人差し指のマニキュア。

昔からあったように鎮座する駅前のコンビニ。

深夜0時のファミレスで交換される電球。

一つ一つの灯りは夜景の一部にしかならないし、

階下の灯りが点いてるかさえ知ることのないまま、

今日も一日が終わるね。

誰かの景色にしかならない電球を

自分の部屋にも灯しては消す。

夜景になる短い時間。

ぱちん。

zero⚫️

人一倍写真を撮られて育ってきたのに、

歯を見せた自然な笑顔はできない子どもだった。

ひとりっ子として物凄く物凄く物凄く

愛されて育てられた。

生まれたときからずっと撮られ続けて

わたしのアルバムはもう70冊を越えてる。多分。

真正面からのアングルは口を結んで、

両の口角をあげたものばかり。

その頃はそれが一番いい顔だと信じていたし、

何よりも崩れた顔で写真に写ることが怖くて、

変なプライドがあった。

通ってきたぜんぶの卒アルは

教師とカメラマンに笑え笑えと言われ続け、

馬鹿みたいに無理やり歯を見せてぎこちない笑顔が

はりついてるだけ。

でもあるときからそれが変わった。

歯を見せて笑えるようになった。

というより、誰よりもわたしを笑わせてくれて、

笑ってるときのわたしをいつの間にか撮っている、

そんな人に会った。

それは人生の中の大事件で、

今までとは全然違う写真の中の自分の顔に戸惑って、

こんなに笑っていたことに驚いた。

思いきり笑えて思いきり泣いて思いきり怒れる、

その人の隣はとても居心地が良い。

気遣いばかり先行しがちなわたしが、

本音でぶつかれる、そんな人。

わたしは弱い人間だから、

その人が近くにいない今は

あんまり上手に笑うこともできない。

満員電車の中、必死で鰓呼吸を繰り返している。

わたしすぎるわたしに変態できるようになるまで、

あと何年かわからないけれど、

乱れもがき揺らぐ自分をURLに落とし込んで、

何処ぞの人とも知れぬ他人に嘲笑われる、

いまはまだ、それくらいの存在です。

轟々。

「ものをごうごうと音が聞こえるようなスピードで食べるような男の人が苦手だ」

吉本ばななさんの小説に出てくる女の子は、

男の人の 食べ方 が苦手だった。

男の人特有の筋肉のつき方とか、

ごつごつと骨ばった手、低い声、それらとのギャップになるスイーツ好きや料理好きには好感を抱く女の子が多いというのに、「男性的」な男性はあまり好かれない時代だと思う。

派手にめかしこんでみたり、ハイヒールに花柄スカートで中身のない会話ばかりしたがる「女性的」な女性があまり好まれないことも然り。

黒か白かはっきりさせる時代ではなく、

グレーの濃度を調整するような生き方や考え方が

浸透しているような、そんな感じがする。

「君は男の人が苦手なんだ?そっか、でもね、大丈夫だよ。

男とか女とかちゃんと飛び越えてきてくれる人がきっといるよ。」

恋をしてみたいものの、男の人が苦手故に

恋人ができないという女の子に対して、

大森靖子さんが言った言葉。

すとんと落ちた。

恋愛恋愛というけれど、

男性女性というけれど、

それらすべてを飛び越えてくる人はいる。

黒でも白でもグレーでもない、ピンクの世界。

相変わらず体調は悪いけれど、

雨の日は誰もが平等に機嫌が悪くてなんだか

妙に落ち着く。

無題。

そんなヤツ、死ねばいいのに。

この一言に救われてしまった日のことを

敢えて記録として残しておきたい。

人には絶対に触れられたくない部分がある。

私の場合は顔。

人はあまり目立たないと言うけれど、

自分にははっきりと浮き立って見える、

一生消えない古傷がある。

大量出血で意識が朦朧とする中救急車で運ばれ、

失明していたかもしれなかった、

そんな事故でできた傷。

未だに

後ろから話しかけられることに異常な恐怖を感じたり、

救急車のサイレンを聞くと胃が縮まる思いをする。

似たような経験や感性の持ち主ならば、

もう年月が経ったから、では解消されないものがあることを知っている筈だ。

つい最近、社内にて初対面の人に

「え、顔に傷あるんだね?その傷どうしたの?ねえどうしたの?」と何度も何度も繰り返ししつこく聞かれた。

嫌いだと感じた人に対してこそ、

曖昧な態度でしか応じられない私は

「小さい頃に色々と…」と

引きつった表情と掠れた声で濁すのが精一杯だった。

そうやって、出会って30分足らずの人に、

顔と心の傷跡を同時に抉られた。

その日は帰宅するのがやっとの思いで、

夜も寝つけなかった。

ドラマのワンシーンのように昼間の光景が蘇り、

気持ちが沈んだ。

翌日からも無理矢理に出勤し、やっとの休日、

信頼のおける人に電話をかけた。

頻繁に近況報告をし合う仲、

出来る限り平静を装って、普段通りのトーンで報告した。

暫く間をおいて

今までに聞いたことのない冷たい声で

電話口から冒頭の一言が聞こえた。

私の中で、じんわりと、

でも確かに何かが崩れていく音がした。

相手に気づかれないように目頭をおさえながら、

救われている自分に気づいていた。

かわいそうだね、辛かったね、というような

共感ではなかったから、

100%の当事者意識の元に放たれた一言だったから、

救われてしまったのだろう。

人には絶対に触れられたくない部分がある。

ずかずかと侵入されるくらいならば、

悪意を持って、笑われたり、蔑まれるほうがましだ。

一番恐ろしいのは、無邪気とも言うべき悪気の無さだ。

本来、救われてはならない一言に救われてしまった日を

忘れられない「思い出」として敢えてここに記す。

わたしいがいわたしじゃないの。

小説、ドラマ、演劇。
フィクションが死ぬほど好きです。

それらを作る才のある人も好きです。
というよりなりたかったんです、本当は。

けれどここ最近、見えてきました。

「本当に好きだから、好きだからこそ、仕事にしたくない」の意味が。

時として、
掴んでしまうと壊れてしまうかもしれない夢を叶えるよりも、手を伸ばせば届く美味しいカレーが存在していてくれるほうが、しあわせに生きられるのかもしれない。

そんな風に思うこの頃です。

決して悲観的なわけではありません。
何かを諦めたわけでもありません。

むしろ、美味しいカレーの有り難みというか、
そういうものが作り出してくれていたしあわせに
気づくことができるようになりました。

いろいろが現実味を帯びると
風景も少しずつ変わるものですね。

最近、じぶんにとってのしあわせを
よく考えるようになりました。

2016年、24になります年女。

コロコロ変わるこのブログの文体のように
気紛れに、可愛く、我儘に生きます。

わたし!わたしだよ!

第一声がなんとか詐欺みたいなその電話がきたのは12月のはじめだった。

無論誰かは分からなくて、怖くて、何故見知らぬ番号に出てしまったのかと自分を呪った1分間。

「どちらさまでしょうか」
「わたし!」の応酬。

一本調子なわたし(筆者)に折れたとみえて、
彼女が名乗った。
小学生の頃のクラスメイトだった。

相手が分かった途端、
受話器からの声はとても愛おしくて、
泣きそうになった。

小学生の時分から
発達障害を抱えていた彼女の会話は
昔からあちこちに飛んでいくのだけれど
彼女の個性である
そのすべてを愛おしいと思った。

地元で生まれ、生き、産む、
そんな地方特有の習慣が根強い地域から、
同級生が多くいる土地から、
地元を離れたわたしに、
彼女が連絡をくれた。
なによりもそのことが嬉しかった。

身の回りの物を整頓することが苦手だった彼女が、
はるか遠い日に手渡した携帯の電話番号を探し、見つけ、
連絡するまで、どれだけの時間がかかったんだろうか。

遠く離れた場所でも自分を想ってくれる人がいる。
心から愛おしくて、
優しい気持ちにさせてくれる相手がいる。

笑っちゃうくらいにクサイけど、
わたしは自分のことを考えるのが得意じゃないから
そのことだけが、
生きる原動力。