承認欲求の話。

求められていたい。

必要とされなければ死んでしまう。

それがわたしの生態。

 

自己肯定感の低いわたしは、 

言い換えれば承認欲求の強いわたしは、

他者に必要とされてはじめて存在価値を見出せる。

多分、人よりもその感じ方が強い。

仕事でも友情でも。

恋愛は誰にとっても自己肯定感を味わえる最たるもので、

その先にあると考えられている結婚は

人生において必要とし合っていくもので、

故にみんな恋してたいんではないだろうか。

 

ひとりでいい。

でもわかってくれるひとりはいてほしい。

 

そばにいてほしいと想う相手にも同じように

唯一無二の存在と想ってもらえたなら、

たとえそれが一瞬でも、

生きていてよかったとそう思える。

 

何も生み出さないまま終わるそんな毎日でも、

気づいたら少しは物の見方も変わっている。

そう信じて生きられるようになる。

 

先日会社の研修で原動力分析テストをした。

 

人から感謝される、求められること。

それがわたしの原動力らしい。

仕事だから原動力と言うけれど、

わたしの人生そのものに直結する答えだった。

 

ご存知の方もいるだろうが、

去年は特に余裕が無かった。

 

わたしの格好悪いところをいくつも知っている恋人に、「人と比べることはないよ」ということばをもらってから、少しだけ息がしやすくなった。

 

わかっていてくれるひとりが

たいせつにうけとめてくれれば

もうそれだけでいい。

 

だけどわかってくれていてくれるひとでも

たくさんの想像力をもって接し合わないと

ばらばらになってしまうのに、

さいしょからわかりあえないひとは

脅威でしかない。

 

大学ではことばの感覚が合う友人とばかり過ごしていたから、そしてそんなに感覚が合う友人が一度にできて毎日が嬉しかった。

 

だから卒業してからは、たくさんの感覚の違いに出会ってぶつかって何度もひとりで泣いた。

 

仕事に関係の無い顔の傷の理由を問いただされてズタズタになった日もあった。初対面だったその男と別れてから電車で涙が止まらなくなって、誰も声をかけてこない東京の美しい冷たさが、初めて好きだと思った。

 

本当に本当に辛いことからは逃げてもいいことを本能的に知った夜だった。

 

男女問わず好きだと想った相手には常に想像力をもって、そうでない相手にはあまり関わることなく、優しく強く生きたい。

 

ある人が考え無しに言ったことばが、ある人を一生傷つける凶器になることを知っているから。

 

大切な人の本当に辛い夜に必要とされる存在になれたら。何にもできないけれど、ただいることを求めてもらえるような存在になれたら。

そして幸せも一番に話してもらえるような存在になれたら、それ以上の幸福はきっとこの世にない。

 

生きててよかった、
そんな夜を探してる。
探し続ける。

 

話したくない。

阿川佐和子の「聞く力」は、彼女が「話したくない」からこそ、身につけた力ではあるまいか。

 

この疑念については邪推にすぎないかもわからないが、少なくともわたしは「話したくない人」である。寡黙という訳ではない。出来る限り自分を語りたくないのである。 

 

日々、人に会えば「おはよう」「こんにちは」「失礼します」などの儀礼的なものに始まり、係決めの年齢から繰り返されるディスカッション、幾つも重なる会議、はたまたリビングでテレビを見ながらの家族との団欒や人によっては恋人との甘い?会話など、日常生活は会話に埋め尽くされている。

 

兎にも角にも、この大雑把な6行では表しきれないほどに、会話は人間が生きるために必須の要素だ。

 

文字に起こすと1日あたり、一体何文字の会話をしているのか。考えただけで恐ろしい。大半は雑談で構成されている上に、日本人であるが故にタメ口と敬語、本音と建前を使い分け、それでも一言一句については殆ど憶えていないのだからより恐ろしい。

 

冒頭に「話したくない人」と高らかに宣言したわたしだが、結局は先のような6行の日常に飲み込まれている。日常において全く話したくないにも関わらず、それでも話さざるをえないのである。 

 

何故ならどんなに言葉を尽くしても、どんなに同じ体験を共有したとしても他者とは一生分かり合えないからだ。

 

こう書くといや、そんなことはない、きっと分かり合える。との反論が容易に想像できる。けれど、あなたにとっての分かり合える相手は、隣り合わせのパズルのピースのように最初からしっくりくる相手ではなかったはずだ。あなたなりに、相手を理解し、思いやり、そして分かり合う瞬間を増やしてきたはずだ。

 

友人とも、恋人とも、家族とも、あなたは違う。

それは哀しいかな、相手との距離感関係無しにわたしとあなたが違うことと同義なのだ。

 

だからわたしは甘えであることを知りながらも、時として「分かり合おうとする心」を手放し、「聴く」に徹してしまいたくなるのだ。

 

口を閉ざし、書くのではない。

書くことで、脳を開くのだ。

 

小さな脳みそをぐるぐるさせて、

人よりも小さな歩幅を進めている22.5。 

 

つんのめりながら明日も歩く。

わたしについて。

気まぐれに筆を取るこのブログも開設して数年経つ。今更なタイトル、かもしれないです。

 

でもいい。

今、書きたい気分だから。

 

1.わたしの状態

わたしのtwitterをそこそこ見ている人がこれを読んでるならご存知の通り、鬱になりました。なっていました。いや、いまも一時的な躁状態かもしれないです。

 

笑うことができなくなって、

食べることができなくなって、

眠ることができなくなりました。

正式な診断書も出されました。

 

仕事のストレスと東京にいることの不安に押しつぶされそうだったのかもしれません。どうしてこうなったのか、じぶんでももうよくわからないのです。

 

3年の付き合いになる遠距離中の彼に沢山たくさん支えてもらって、どうにか短期間で今は回復状態にありますので、こうして文章も書けるわけです。

 

彼が近くにいる間は自分が選択した優しい空間にしか身を置きたくなくて、我儘を沢山言いました。

 

緑いっぱいの公園に行きたい、大好きな大森靖子ちゃんのライブに一緒に行ってほしい、ヨガについてきてほしい

 

頭痛や眩暈で座り込んだりすることもあり、一人では絶対達成できなかったわたしの我儘をぜんぶ叶えてくれました。

 

今回の鬱状態はこれまでにないレベルのもので、それこそ「死にたい」と呟いてはふわふわと浮遊しているような毎日でした。

 

流石に面倒で別れを告げられるだろう、正直そう思ってました。でもそういうことにはならなくて、両親以外に無条件で愛してくれるひとがいることの尊さに泣きました。

 

2.わたしというひと(一部)

わたしは驕りではなく、「優しい」とよく言われます。「おとなしい」とも言われます。他人からは「良い人」認定を受けやすいです。

 

要するに自分に自信がないのです。

 

人との関わり方も不器用で、本当に好きな相手、それもそんなわたしにでも心を開いてくれる相手としか会話が出来ません。

 

わたしは自分が嫌いです。

 

23という歳にもなれば、周りは結婚や出産など、キラキラして見える人生の節目についてあれこれ語りたがります。でもわたしは相手のことは兎も角として、こんな自分の遺伝子を残すことが嫌です。怖いのです。

 

わたしは幸せな家に産まれました。

一人娘としてそれはそれは大切に育てていただきました。人一倍、愛情を注がれて生きてきました。

 

だから、もしももしも子どもを授かったらやっぱりそんな風に育ててあげたいと思います。両親への感謝を込めて。自分などの遺伝子、と言うけれどそれはわたしを大切に育ててくれた両親から引き継がれたもので、このバトンを引き継ぐことがわたしの恩返しなのかもしれないですし。エゴと言われればそれまでですが。と言って、自分以外の考えに対する逃げ道を用意しまうあたりがわたしの自信の無さです。

 

自分に自信がないわたしは生きることが大変下手くそです。

 

鬱状態に陥ってからというもの、精神状態が日によって大変不安定ゆえ、より生きにくいです。

 

でも死にたい毎日を過ごして、生きたいと思えることがしたいという当たり前の答えにようやくたどり着きつつあります。

 

3.おねがい

「日頃から温厚で真面目な彼女に、一体何があったのでしょうか。」

 

ニュースで他人に伝えられてしまう二行の中には、出自も含め何十年の人生があることを、どうか、どうか、想像してください。

 

4.おわりに

この文章を公開することで、わたしという人間の暗さに嫌気がさす方もいらっしゃるでしょう。

 

わたしはすべての人間関係において、追いかけることはできないので、貴方が「違うな」とお思いになりましたら、身を引いてください。

 

次に筆を取るときはまた違った内容でお目にかかれると幸いです。

 

 

 

 

 

 

泣いて、凪いで、哭いて、鳴いて。

 

どの女とも同じものがついてるこの身体を欲する貴方は好きになれない。誰にも見せない自分だけの馬鹿みたいに優しい世界を愛してほしい。その世界を司るものとしてならば悦んでこの身体を捧げよう。でもそんなもので満たされるなんてやっぱりわたしの好きな貴方ではなくなった。

 

狡猾に壊れた果てに愛を得て満足するような貴方など要らない。

 

体内の浸透圧が高くなって流れ込んできた擦れ違いざまざまの生活をぐんぐん呑み込んで吐き出せずに御愁傷様。

 

甘美なノスタルジー、禁断の果実、甘い罠。

貴方に与えられたいものはこの全部であってどれでもない。

 

どうか、どうか、

優しい人の冷たさに安心してしまう弱さを

嗤って。

 

ぽきゅ。

春っぽい音感を考えたら、ぽきゅ。という音が湧き上がってきた。一度舌で転がして、可視化する。洋服の試着で言うところの、サイズぴったり。そっとたたみ直して、タイトルに飾る。

季節の変わり目だからか、春は頭が痛い。

毎日痛く、薬を飲み続けて4日程。

飲めば良くなるから有り難し。

朝。早く起きて、卵液にたっぷり浸した食パンをこんがり焦げ目がつく頃までじうじうと焼いた。シナモンの香りと林檎の果肉がゴロゴロしたジャムをのせていただく。

昼。バターをたっぷりいれた、たらこのスパゲティを少しだけ口にする。薬を飲んでとろとろ眠って、ぼんやりと過ごす。

夕方。夕飯の買い物のためスーパーに。アスパラの緑に魅入られたと思ったらカゴに入っていた。ベーコンがあるのでくるりと巻いて、ぱちぱち焼くことにする。トマトやチーズなんかもくるりとしてしまえばよさそうだ。

今。ベッド脇のローテーブルには大抵本が3,4冊積んであるのだけど、エッセイを一つ読み終えて山が小さくなった。

恐ろしく平穏な日曜日は怠くて、寂しい。

月曜が始まることへの倦怠感だけじゃない。

20XX年の日曜日には、何処で誰と何をしているんだろうか、なんて、5年後だって、全く見えないのに意味もなくぐるぐると考えてみたりしてるからなんである。

ただ、きっと20XX年後の春の日曜日だって、やっぱり頭が痛くて、薬を飲んでとろとろ眠って、良くなったら一向に減らないベッド脇の山を崩す作業に勤しんでいるんだろうな。

と、思うとそれはそれで何だか物足りないような、

や、それが一番の幸せなのかもね。

未経験のことをしたくて、でもまだ勿体ない。

そのくせ待ちわびているのも確か。

クリームソーダのサクランボを最後に食べるか最初に食べるか、迷ってるうちに過ぎていくような、そんな春。きっと一瞬。

持て囃された桜の花は雨風なんかで、あっという間にアスファルトに散って、茶色に変色し、箒で掃かれ、消えていく。

新調したばかりの無数の靴が、桜を踏み躙り、殺していく。

ぽきゅ。ぽきゅ。ぽきゅ。

中央線沿いのマンションのヨガ教室の窓から

ぬるくなった缶ビール。道端で燻ってるタバコの吸いさし。

すれ違う人の体臭。スマホで乾ききった眼球。

毎日の中に落ちている虚しさは言葉にすると

5度くらい体温が下がる。

でも紛れもなくそういう日常に生きていて、

だからキラキラした1日を手に入れたくて、みんな必死。

あまくてやさしくてだれもきずつかない、

みんながもとめてるキラキラ、

そんな非日常的なドラマはみたくない。

電車の網棚に忘れられた新聞の持ち主のドラマは

つまらないかもしれないけれど、

それは誰かが評価することじゃない。

ぜんぶぜんぶぜんぶ、そうだよ。

誰よりも生きてる、はげかかった人差し指のマニキュア。

昔からあったように鎮座する駅前のコンビニ。

深夜0時のファミレスで交換される電球。

一つ一つの灯りは夜景の一部にしかならないし、

階下の灯りが点いてるかさえ知ることのないまま、

今日も一日が終わるね。

誰かの景色にしかならない電球を

自分の部屋にも灯しては消す。

夜景になる短い時間。

ぱちん。

zero⚫️

人一倍写真を撮られて育ってきたのに、

歯を見せた自然な笑顔はできない子どもだった。

ひとりっ子として物凄く物凄く物凄く

愛されて育てられた。

生まれたときからずっと撮られ続けて

わたしのアルバムはもう70冊を越えてる。多分。

真正面からのアングルは口を結んで、

両の口角をあげたものばかり。

その頃はそれが一番いい顔だと信じていたし、

何よりも崩れた顔で写真に写ることが怖くて、

変なプライドがあった。

通ってきたぜんぶの卒アルは

教師とカメラマンに笑え笑えと言われ続け、

馬鹿みたいに無理やり歯を見せてぎこちない笑顔が

はりついてるだけ。

でもあるときからそれが変わった。

歯を見せて笑えるようになった。

というより、誰よりもわたしを笑わせてくれて、

笑ってるときのわたしをいつの間にか撮っている、

そんな人に会った。

それは人生の中の大事件で、

今までとは全然違う写真の中の自分の顔に戸惑って、

こんなに笑っていたことに驚いた。

思いきり笑えて思いきり泣いて思いきり怒れる、

その人の隣はとても居心地が良い。

気遣いばかり先行しがちなわたしが、

本音でぶつかれる、そんな人。

わたしは弱い人間だから、

その人が近くにいない今は

あんまり上手に笑うこともできない。

満員電車の中、必死で鰓呼吸を繰り返している。

わたしすぎるわたしに変態できるようになるまで、

あと何年かわからないけれど、

乱れもがき揺らぐ自分をURLに落とし込んで、

何処ぞの人とも知れぬ他人に嘲笑われる、

いまはまだ、それくらいの存在です。