話したくない。

阿川佐和子の「聞く力」は、彼女が「話したくない」からこそ、身につけた力ではあるまいか。

 

この疑念については邪推にすぎないかもわからないが、少なくともわたしは「話したくない人」である。寡黙という訳ではない。出来る限り自分を語りたくないのである。 

 

日々、人に会えば「おはよう」「こんにちは」「失礼します」などの儀礼的なものに始まり、係決めの年齢から繰り返されるディスカッション、幾つも重なる会議、はたまたリビングでテレビを見ながらの家族との団欒や人によっては恋人との甘い?会話など、日常生活は会話に埋め尽くされている。

 

兎にも角にも、この大雑把な6行では表しきれないほどに、会話は人間が生きるために必須の要素だ。

 

文字に起こすと1日あたり、一体何文字の会話をしているのか。考えただけで恐ろしい。大半は雑談で構成されている上に、日本人であるが故にタメ口と敬語、本音と建前を使い分け、それでも一言一句については殆ど憶えていないのだからより恐ろしい。

 

冒頭に「話したくない人」と高らかに宣言したわたしだが、結局は先のような6行の日常に飲み込まれている。日常において全く話したくないにも関わらず、それでも話さざるをえないのである。 

 

何故ならどんなに言葉を尽くしても、どんなに同じ体験を共有したとしても他者とは一生分かり合えないからだ。

 

こう書くといや、そんなことはない、きっと分かり合える。との反論が容易に想像できる。けれど、あなたにとっての分かり合える相手は、隣り合わせのパズルのピースのように最初からしっくりくる相手ではなかったはずだ。あなたなりに、相手を理解し、思いやり、そして分かり合う瞬間を増やしてきたはずだ。

 

友人とも、恋人とも、家族とも、あなたは違う。

それは哀しいかな、相手との距離感関係無しにわたしとあなたが違うことと同義なのだ。

 

だからわたしは甘えであることを知りながらも、時として「分かり合おうとする心」を手放し、「聴く」に徹してしまいたくなるのだ。

 

口を閉ざし、書くのではない。

書くことで、脳を開くのだ。

 

小さな脳みそをぐるぐるさせて、

人よりも小さな歩幅を進めている22.5。 

 

つんのめりながら明日も歩く。