生生生生生。

初めて人骨を見たのは6歳の3月だった。

まだ春には程遠い北の3月。

時折思い出したように暖かくなり

路肩の雪融け水が側溝を汚し始める季節。

初めての春休み。

外はよく晴れていたというのに

あの日は一日中家にいたのだったか、

おやつに出された蜜柑に歓声をあげた昼下がりのこと。

ざっくりと9つほどに切られた蜜柑の香りは甘酸っぱく、

汁が顎に滴り落ちるのも厭わずに頬張っていた。

間の抜けた固定電話の着信音が悲しい報せを持ってきたのは、そんな平穏な午後だった。

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「人の死」、を怖れ続けてきた。

焼かれたばかりの人の骨は

哀しいくらいにあたたかくて、

悲しむ周りの空気とは似つかわしくないくらい、

優しいあたたかさを持っているのだということを知った

6歳のあの日からずっと。

とりわけ

生まれて初めて愛してくれた人であり、愛した人(両親)を

いつかは失うことの怖れは20を越えてからというもの、

より現実味を帯び、ずんずんと迫ってくるようになった。

皮肉なもので、自分の死は怖くない。

交通事故で意識を失い、「死」に直面したこともあるというのに、「遺す者」と「遺される者」という位置の逆転が起こると、妙に腹が据わった。

画して、人間とは傲慢な生き物だ。

「遺す者」よりも「遺される者」の痛みが大きいことを

本能的にわかっている。

けれど、自分が「遺す者」となる一度の死に比べて

「遺される者」となる経験は歳を重ねるほど増える。

恋愛、そして一般的にその先にあるものとされる結婚を、

"血縁者以外の特定の人から愛され、家族になり、子を産む"

ことと定義するならば、

「遺される者」としての死を怖れる対象は

必然的に増えていく。

まるで「遺される者」として生きる試練を、

生まれながらにして与えられているようだ。

神様は人間に酸いも甘いもお与えになる。

人はいつか死ぬ。

知人の知人が亡くなったかもしれない今日、

私がつゆ知らず良いことがあったと喜ぶ世界は、

明日も自分にとっての都合の良いように、

自分が愛する対象が中心に廻っていく。

それはもう仕方のないこと。

誰しもが東京は疎か、

同じ地区に生きている人すら愛すことはできない。

人生の中で愛すことのできる対象は限られている。

それならば、

それならば、

せめて、

自分が愛する人と

「死」までの毎日を

少しでも同じ時間を感じながら

生きていきたい。

いつ何時、「遺される者」となり、また「遺す者」になるか

わからない毎日を、そんな風に生きていきたい。

「死」は日常に融け込んでいくもので、

「遺される者」は「遺す者」のすべてを

永遠に留めておけない。

だからこそ、

だからこそ、

少しでも多くの時間を過ごしたい。

それが人にできる

「死」を迎え入れる唯一の術なのだという

希望的観測の下に。