ショットガンであいつの頭ぶちぬいて シチューで食べたいやつがいる

死にたい死にたい死にたい死にたいもしくは死ね死ね死ね死ねて打ってればこの死にたみは消えるんですかね、偽善者のふりして僕は全然優しくなんてないんだ。本心なんて壁でどうとでも隠せるじゃんね。みんなだいっきらいなだけだよ。そんなふうに思っちゃいけないって誰が言ったんだ?ほとんどの人間は言葉が通じないしなんかもうごみ溜めの中にいるみたいじゃないか。そんなかできらきらを見つけるサバイバルゲームだろう?誰とも気が合わないことが正の世の中で友達100人って言ってる奴のほうが嘘だ。給食なんて全部食べなくたっていいんだ、大事なのはそこじゃないんだ。頭が良いとか悪いとかって言うけどそう判断すること自体、ただの自己満足だしお前の指標なんて有って無いものだよ。本当はわかってるんだろ。わかってるのに、自分だけは綺麗って思ってたいから、信じてたいから正論と勘違いしてるだけの自分の意見を押し付けるんだろう?恋愛相談なんて受けるほうもするほうも馬鹿だよ。瞬きしていいですかって聞くようなもんだよ。相手を見ろ。答えはそこにしかないよ。なんだってそう。眼を見開くしか無くてだから生きるって孤独なんだろ。僕は僕の人生に他人を侵食させたくないから他人に相談しない人生を死にたい。孤独にぶちのめされて生傷で臭気漂う毎日で、格好悪くてダサくてどうしようもなく脆い僕をたったひとりに全肯定してもらえたらそれだけであとはもう何も要らない。存在しなくていい東京でずんずん夜を進んでくだけ。

23時の戯言。

「ひとりっ子に見えない」と勝手に言われる。

 

私のこれまでの命のすべても知らないでよくもまあ抜け抜けと「見えない」と言えるもんだ。貴方に相対している私は私の人生の1ミリにも満たないというのに。

 

「兄弟姉妹がいそう、いなさそう」

この手の会話が嫌いだ。大嫌いだ。

あくまで分かりやすい例。

 

そこまで考えていたら、生きていけないかも知れないね確かに。でも人の家族を人生を一瞬しか知らない誰かに、いや一瞬すら知らない誰かこそそんな憶測をたてる傾向があって、そんなのおかしいと思うこの感覚もあったって良いはず。間違いとは言わせない。

 

「ひとりっ子」と言うと、「そんなに甘やかされていなさそう」と言う貴方は私の何を知ってそう言えるんだ。それは褒め言葉だとでも思って言ってみたのか。何その根拠の無い上から目線。

 

「まあそうかもね、兄弟姉妹がいないほうが家族構成親類は大人の中で育てられて、必然的に早く大人になるからね、兄弟姉妹のいる貴方よりは様々な場面で大人として扱われてきたことが多かったですよ」とでも言えばいいですか。ほんとうは打ちのめしたいそいつへの心は何処に飛ばせばいいんですか。

 

自分の物差しを突然勝手に押し当ててきて満足気に品定めする人はそうしなければ自信がないのかもしれないけど、その行為で不快な思いをする人がいることを考えられない人。

 

今までは避けてきた人間は社会人になってから避けようもなく、色んな物差しが私の胸にあてがわれては「ふうん」の一言で去っていく。

 

爆発しそうな心だけが取り残されて、ひとり。

 

HP3。

肩で息する全身を引き摺って明日も生きる。

LIFE IS DEAD

去年のこの時期は死にたくて死にたくて鬱になって精神科行って薬5種くらい飲んでって感じで、人間みんな持ってる快楽への貪欲さが一切消えて何もしたいことなくてみんなしたいことあるなんて強欲で気持ち悪くて、なのに人間欲が無いと生きるの難しくて本当に気持ち悪い。どいつもこいつも衣食住は最低限でそれ以上の欲を持って生きてて気持ち悪い。誰もが自分を守る為に意志のない言葉で夢を見て、誰のそれも分かろうとしても絶対分かんない。自分のが一番分かんない。から自分のために生きるのをやめた。つもりのここ最近。肉体も精神も自分を向くと相変わらず嫌悪しかない。君は生きることへの執着がない。と好きな人に言われてそうだねと頷いた。自分が生きた今日にどれだけの価値があるのか、それを物差しで測りたくなるような衝動は変わらず抑えきれないけれど、他の誰にも向けない本物の瞳で穏やかな言葉をくれるその人との僅かな時間が今は何よりも尊い

アナログシンコペーション。

フツーに美味しい。フツーに可愛い。フツーに面白い。

 

そういう普通なんて要らない。

 

きみの普通とわたしの普通は違う。

だから何だって普通だよ。

 

違いを見つけたらメンヘラとか障害って名前をつけて自分は「普通」だというその認識が普通じゃないよ、怖い怖い。

そんなにみんなと一緒じゃなきゃだめですか。

マジョリティ=普通って感覚が怖くて、フェイスブックのいいねは押せないわたしの普通だってあってもいいでしょ。

 

アスペルガー症候群を面白く、ってかこの感覚しか分かんないけどこれからもこのまま生きたいし、生きるしかないし、自分の呼吸しやすい場所を作って自分のペースで生きてるし、これからもそうする。

 

良いところを伸ばしてくれた両親の教育方法には本当に感謝しかない。いつか会いたいわたしの子どももそう産まれたら、その運命を愛し抜きます。

 

一緒に死ねるレベルの人がわたしを見つけてくれた幸運に感謝しながら、死ぬまで過ごすためにちゃんと生きる。いつか一緒に過ごして共に老いてゆけるなら、物理的に遠いこの時間があといくら続いたっていい。ほんとだよ。

 

今は海の向こうにいる人が地球に存在してくれてる限り、わたしは毎日を斃せる。

 

惚気レベルなんてとうに飛び越えた、

人間にとっての水分みたいな、最早命がけの、

そんな愛があってもいいよね。

 

わたしの普通。

 

全肯定。

 

 

 

 

 

 

みぞみぞ。

‪自分の価値観以外をディスって息を吸う弱い人間にはなりたくないなあ、対象が可愛いになればぜんぶ許せるのかなあ。可愛いは今を覆す麻薬だもんね。

 

毎日はちっぽけな虫を潰すような闘いの連続で好きな人がいないと1ミリも優しい気持ちになれないね。春のせいで脳が痛んで心だけが遠くにある。‬何処かに行きたいうちは何処にもいけないくせに。

 

変わらないものを愛せたら大人になった証拠かもね。自分じゃない体温を感じてやっと自分との境目を見つけているうちはまだまだなのかもね。

 

何度も言ったよ。

誰かと重なる好きでしか構成されない自分を早く認めて。本当のオリジナルなんて何処にも無いこと、見て見ないフリして分かってるんでしょ。

 

精神も肉体も自分以上でも以下でもなくて、

擦り減らすも守るも自由だよ。

堕落して堕落しきって見えなくても、

見えないという現実しかないから死ねない。

 

快も不快も感じられるのは自分だけ。

ひとりだけ。

 

誰も分からないし

誰にも分からなくていい。 

 

 

承認欲求の話。

求められていたい。

必要とされなければ死んでしまう。

それがわたしの生態。

 

自己肯定感の低いわたしは、 

言い換えれば承認欲求の強いわたしは、

他者に必要とされてはじめて存在価値を見出せる。

多分、人よりもその感じ方が強い。

仕事でも友情でも。

恋愛は誰にとっても自己肯定感を味わえる最たるもので、

その先にあると考えられている結婚は

人生において必要とし合っていくもので、

故にみんな恋してたいんではないだろうか。

 

ひとりでいい。

でもわかってくれるひとりはいてほしい。

 

そばにいてほしいと想う相手にも同じように

唯一無二の存在と想ってもらえたなら、

たとえそれが一瞬でも、

生きていてよかったとそう思える。

 

何も生み出さないまま終わるそんな毎日でも、

気づいたら少しは物の見方も変わっている。

そう信じて生きられるようになる。

 

先日会社の研修で原動力分析テストをした。

 

人から感謝される、求められること。

それがわたしの原動力らしい。

仕事だから原動力と言うけれど、

わたしの人生そのものに直結する答えだった。

 

ご存知の方もいるだろうが、

去年は特に余裕が無かった。

 

わたしの格好悪いところをいくつも知っている恋人に、「人と比べることはないよ」ということばをもらってから、少しだけ息がしやすくなった。

 

わかっていてくれるひとりが

たいせつにうけとめてくれれば

もうそれだけでいい。

 

だけどわかってくれていてくれるひとでも

たくさんの想像力をもって接し合わないと

ばらばらになってしまうのに、

さいしょからわかりあえないひとは

脅威でしかない。

 

大学ではことばの感覚が合う友人とばかり過ごしていたから、そしてそんなに感覚が合う友人が一度にできて毎日が嬉しかった。

 

だから卒業してからは、たくさんの感覚の違いに出会ってぶつかって何度もひとりで泣いた。

 

仕事に関係の無い顔の傷の理由を問いただされてズタズタになった日もあった。初対面だったその男と別れてから電車で涙が止まらなくなって、誰も声をかけてこない東京の美しい冷たさが、初めて好きだと思った。

 

本当に本当に辛いことからは逃げてもいいことを本能的に知った夜だった。

 

男女問わず好きだと想った相手には常に想像力をもって、そうでない相手にはあまり関わることなく、優しく強く生きたい。

 

ある人が考え無しに言ったことばが、ある人を一生傷つける凶器になることを知っているから。

 

大切な人の本当に辛い夜に必要とされる存在になれたら。何にもできないけれど、ただいることを求めてもらえるような存在になれたら。

そして幸せも一番に話してもらえるような存在になれたら、それ以上の幸福はきっとこの世にない。

 

生きててよかった、
そんな夜を探してる。
探し続ける。

 

話したくない。

阿川佐和子の「聞く力」は、彼女が「話したくない」からこそ、身につけた力ではあるまいか。

 

この疑念については邪推にすぎないかもわからないが、少なくともわたしは「話したくない人」である。寡黙という訳ではない。出来る限り自分を語りたくないのである。 

 

日々、人に会えば「おはよう」「こんにちは」「失礼します」などの儀礼的なものに始まり、係決めの年齢から繰り返されるディスカッション、幾つも重なる会議、はたまたリビングでテレビを見ながらの家族との団欒や人によっては恋人との甘い?会話など、日常生活は会話に埋め尽くされている。

 

兎にも角にも、この大雑把な6行では表しきれないほどに、会話は人間が生きるために必須の要素だ。

 

文字に起こすと1日あたり、一体何文字の会話をしているのか。考えただけで恐ろしい。大半は雑談で構成されている上に、日本人であるが故にタメ口と敬語、本音と建前を使い分け、それでも一言一句については殆ど憶えていないのだからより恐ろしい。

 

冒頭に「話したくない人」と高らかに宣言したわたしだが、結局は先のような6行の日常に飲み込まれている。日常において全く話したくないにも関わらず、それでも話さざるをえないのである。 

 

何故ならどんなに言葉を尽くしても、どんなに同じ体験を共有したとしても他者とは一生分かり合えないからだ。

 

こう書くといや、そんなことはない、きっと分かり合える。との反論が容易に想像できる。けれど、あなたにとっての分かり合える相手は、隣り合わせのパズルのピースのように最初からしっくりくる相手ではなかったはずだ。あなたなりに、相手を理解し、思いやり、そして分かり合う瞬間を増やしてきたはずだ。

 

友人とも、恋人とも、家族とも、あなたは違う。

それは哀しいかな、相手との距離感関係無しにわたしとあなたが違うことと同義なのだ。

 

だからわたしは甘えであることを知りながらも、時として「分かり合おうとする心」を手放し、「聴く」に徹してしまいたくなるのだ。

 

口を閉ざし、書くのではない。

書くことで、脳を開くのだ。

 

小さな脳みそをぐるぐるさせて、

人よりも小さな歩幅を進めている22.5。 

 

つんのめりながら明日も歩く。